2012年7月16日 星期一

南投埔里手作り紙体験ツアー

 

林 友絵

今回私はこの体験のイベントに参加できて良かったです。沢山の外国人(香港人、韓国人等)も参加するとは思ってもみませんでした。

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朝、埔里に着いて最初に私達はペーパードームに行きました。このペーパードームは全部紙で作られています。建物も椅子も。紙で作られているけど意外に丈夫だったので私はびっくりしました。なぜ紙で作られているのに、こんなに丈夫なんだろう?紙で作った建物を初めて見ました。これは日本人が作ったそうです。

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ペーパードームの近くは沢山の蝶々と蛙がいます。台湾では全部で29種類の蛙がいて、埔里には23種類もいるそうです。また、埔里には210種類の蝶々がいるそうです。私が今まで見た事がない蝶々が沢山飛んでいました。この近くに一つの小学校があり、校舎の前が川で、後ろは山でした。ものすごく自然がいっぱいで40人しかいない小学校です。私もこんな自然がいっぱいな学校に入りたいな!

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次は紙工場に行きました。初めから紙を作る原料を準備してくれていて、私達は紙すきをして、そして型を作り、色付けをしてから乾燥させて完成。初めての体験ですごく楽しく、紙を作るのがこんなに難しくてこんなに時間が掛かるとは思わなかったです。もしも今度また機会があればもう一度作りたいです。

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元々午後は18度Cのチョコレート工場に行く計画だったけれど、行くと人が多すぎて結局通り過ぎただけでした。ここは埔里で有名なチョコレート工場らしく、楽しいにしていたのに行けなかったからすごく残念でした。

最後はある公園に行きました。公園の上は台湾の一番真ん中です。上に行くには、1,000段くらいの階段を登らなければなりません。私は行って見たかったけど、皆は疲れていて「行きたくない」と言ってたので、上には行かず残念でした。埔里は空気が綺麗で暑すぎずちょうど良い気温です。また地元の人も熱心で、ものすごく自然が多いところです。観光客にとっては、一度行くとまた行きたくなり、すごく良い思い出ができます。今回のイベントで、皆と一緒に体験して、遊んで、すごく楽しかったです。でももう少し皆とお話し出来れば良かったなと思います。もしも今度またこのようなイベントがあれば、私は絶対に参加したいです。

南投埔里手作り紙体験ツアー

林 明美

今回、南投県埔里鎮手作り紙体験ツアーに香港人、韓国人、台湾人の方達と一緒に参加させていただいた。以前、同じ南投県の観光地“日月譚”には行った事があるが、埔里に行くのは初めてだったので、行く前からすごく楽しみだった。

私達の乗った小型バスは高速道路に入り 台北→ 桃園→ 新竹→ 苗栗 →台中→埔里へ向かった。 バスが、北部から中部へと移動するたび、車窓からの景色も変化し、緑を目にする量も増えていった。そして台北から約3時間ちょっとでようやく目的地の“埔里“に到着。評判通り、見渡す限りの緑が美しい。山が幾重にも重なりまるで絵を見ているようだ。それに空気も新鮮でとても気持ちが良い。大都市では味わえない感覚。私達が最初に訪れたのは、ペーパードーム(紙教堂)と言う所で、紙で出来た建造物がある。1995年日本の阪神大震災発生後、ある日本人建築家の指揮の下、神戸市長田区に作られた建造物を日本と台湾の間の交流の拠点として2008年に台湾へ移築。日本の阪神と台湾921大地震がつながりを作った。建物は紙で出来ているがなんと7,000kgまで耐えられるそうだ。また園内は自然がいっぱいで、沢山の蝶が飛びかっている。埔里には約210種類もの蝶がいるそうでこれには驚かされた。

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そしてバスは「造紙龍」という紙工場へ移動。ここでは、紙すきから絵付けまでを体験させてもらった。実際、自分で紙すきをやってみると意外に難しく、なかなか均一が取れない。スタッフの方に教わりながら何とか紙すき完了。次は好きな型を選びデザイン、色付け。最後は脱水し、木の額に入れてもらいようやく完成。自分で作った世界でたった一つしかない作品、まるで子供の頃に戻ったように一心不乱に楽しむ事ができた。いろいろとご指導いただいた紙匠工房の林政立さんによると紙の原料となる木は、「梶の木」で日本の東北地方にもあるそうだ。普段当たり前のように使っている紙だが、実際手作り体験をしてみて、これからは紙を大事に使用しなければならないと感じた。

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次に向かうは「豊年生態農場」という椎茸農場。沢山の種類の椎茸が栽培されていて、例えば、「補血珍菇」:うすピンク色で噛むと蟹の味に近いらしい。「白精霊」:えのきより大きく太く、真っ白。「鹿角霊芝茸」:本当に鹿の角のような形をしている。霊芝茶を試飲させてもらったが少し苦かった。蜂蜜などを入れ自分で味調整するのもいいらしい。

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最後に台湾地理上最も中心部にあるという公園に連れて行ってもらった。約1,000段ほどの階段を登るとその中心地があるらしいのだが、時間の関係で登れず、下から眺めるだけだった。次回チャンスがあればぜひ登ってみて景色を眺めてみたい。

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あっという間に楽しい一日が過ぎ、台北へ戻る時間となってしまった。今回の体験ツアーで深く印象に残った事は、地元の人の笑顔と親切さ、そして大自然の美しさである。今回埔里でお世話になった方々の笑顔をみて、私は普段忙しさのあまり笑顔になっていない事に気づかされた。また緑の山々の美しさは目に焼きついて離れない。もし日本の友達に「台湾旅行するならどこがいい」と聞かれたら私は絶対に“埔里“と答えるだろう。また時間を作って “埔里“に遊びに行きたいと思う。

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2012年4月23日 星期一

手工造紙的傳承

傳承是名詞, 有一點壓力, 也有一些無奈.
承傳是動詞, 感覺積極許多, 主動了一些.
恆吉城內有四位年輕人離不開造紙業.
因為從小在紙工廠長大, 順理成章也在自家廠就業.
沒有人想過要另外找工作, 因為只愛手工紙.
因此, 承接下家業之後, 現在只能想著要傳給誰.
不是要傳家產, 那些只夠自己這輩子用.
要傳的是台灣80年的造紙經驗.
沒有很多人知道如何才能從無到有做成一張紙.
宣紙與棉紙怎麼分辨?
人有人格, 紙也有紙格, 紙格的高低怎麼評定?
這四個人知道,
或許是最後四個. 


社會結構在改變,有了電腦後機械變聰明了,
業有專精的工匠不再受人敬重.
年輕世代的職人有很多迷失,
為什麼老客戶都不來工廠了?
為什麼傳真機都不再嚮了?
為什麼身邊的老同事們經常提早下班?
有些人早在金融風暴前就放棄了,
留下來的人還在期盼將來,
但經歷過了無數個明天,
也已經習慣, 明天不會更好.
所以, 我們都還在崗位上,
努力做好自己事.
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=   新一代紙匠連盟宣言      =

=  遵重傳統, 它是創新價值的寶庫,     =
=  不墨守成規, 為傳統加入新的元素. =
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2012年4月1日 星期日

紙社區-恆吉城



   埔里是手工紙的故鄉, 恆吉城(恆吉社區)是埔里地區手工紙工廠最集中的區域. 手工棉宣紙的最熱絡的時期, 在恆吉城內設籍的工廠, 大大小小共有23家之多. 有專業生產宣紙, 也有專業生產棉紙, 有染紙工房, 有紙加工所. 當時可謂熱鬧非凡.
   可是好景不常, 在經濟景氣持續降溫下, 陸續有紙廠歇業. 但不管原因是什麼, 恆吉城見證了埔里紙業的興衰.
   平凡的社區週圍目前仍有3家實力派的手工紙工廠持續生產當中...
(手繪圖:梁坤明老師, 田野調查資料:梁坤明老師, 恆吉城人 )




拜訪宣紙社區---恆吉城怎麼走








2012年3月28日 星期三

埔里手工紙業---回顧歷史, 面對未來---


紙的形成在二千多年前的古中國,成為人類最偉大的發明!有了紙,文化才得以傳播,歷史才得以傳承。埔里的手工造紙業,始於清末時期,以中國傳統的造紙術生產竹紙,竹紙亦稱草紙,主要以竹、稻草原料製造,是一種品質粗糙的普通紙,例如祭祀用的金紙即是竹紙的一種,泛指民生、宗教用紙。
   日治時期,治台日人發現埔里的水質純淨,適合製造高級的「日本和紙」,於是在西元1935年,由日人橫溝大藏,在烏牛欄橋下(今埔里愛蘭橋)搭建工寮試驗造紙, 但這個紙寮未即生產隨即不幸被溪水沖毀。1937年橫溝仍在原地重建紙寮,工寮改建成木造廠房,從恆吉城招募人工開始訓練造紙人員,林雙傳、洪亦漢先後進紙寮受訓。
右起第一人: 洪亦漢. 恆吉城


                                                
洪亦漢時期的紙寮, 1940年












當時因是沿襲日本人的造紙方法,所以仍舊使用構樹皮來當作主原料。前來台灣開拓經營的日本人中有專精美濃和紙製作的匠師,由此改良自中國的日式造紙術開始傳入了埔里。日式造紙中製作上最為困難的道具之一是抄紙用的竹簾,本來都是向日本本地業者採買,因價格昂貴不容易取得, 後來由林雙傳的弟弟林榮昌習得了織竹簾的技術,自行創業專製竹簾網,進而促使埔里紙業的發展。

林榮昌故居, 昔日的竹簾網工作室. 現為紙漿畫工作室.恆吉城 
日人奠定了埔里手工造紙的基礎,直到台灣光復後,經濟日漸發達,國內用紙的需求量大增,因此埔里的手工紙產業開始快速發展。至民國60年左右,台灣、日本、韓國開始經濟復甦,日人當時製作的美濃和紙為構樹皮紙類,並不適用於毛筆書法上的使用,於是埔里造紙業開始著手研發書法用的宣紙,除了供應台灣內銷外,開始外銷日本、韓國,而且供不應求,當時埔里的紙廠已經增加到50間左右,埔里成為日本及東南亞手工書畫紙最大的供應地,並且為埔里紙業在國際間樹立了相當的地位,這時期投入宣紙研發的技師多為年青世代的造紙技術人員,如林哲俊,陳正輝,陳文字,張百富,謝正秋,施春盛 等, 其研發的宣紙品質,備受日本人喜愛,至今仍是日本文房四寶中不可或缺的紙種,民國70年至80年期間可謂是埔里造紙業的全盛時期,埔里也被稱為台灣手工紙的故鄉。

右上第三位 黃鳳嬌, 13歲時的原料女工合照, 現任技順企業有限公司董娘. 
50年代恆吉城子弟,
右起林哲俊, 陳正輝,張百富。
 
哲俊於紙寮內調製紙漿的背影,
 現任技順企業有限公司董事長,恆吉城
 
雖然埔里擁有先天上的好條件可做為台灣手工紙的重鎮,仍舊趕不上時代的工業化與資訊化的腳步,研習書法的人口日漸減少, 生育力降低, 年輕人不再從事3K勞動等等因素, 埔里的手工紙業已不再有70年代時期的活力,現在以手工紙為生的人口已經沒有以前多了。埔里的手工紙工廠面臨的危機不再只是停工的問題,80年來所累積下來的造紙工藝目前也處於後繼無人的狀況。造紙產業並非隨時隨地都能無中生有,而是要配合先天良好的自然環境與動輒三代人無私的投入發展才能落地生根的事業, 一旦消失就很難再有。

所幸台灣的年輕世代中慢慢有了重新檢視在地文化,保護在地特色的行動,埔里也不落人後的有了"廣興紙寮"發展手工紙觀光工廠,更有"造紙龍手創館"推廣現代紙藝休閒園區, 每逄假日以及學校的戶外教學埔里地區必定熱鬧滾滾, 現在更有恆吉城的年輕子弟兵 "紙匠手工紙工房" , "賴志旺工作室", "技順企業有限公司"  積極投入埔里紙藝承傳的行列,希望透過設立"紙學堂"教授手工紙製造技術,真正的完成深入探訪手工紙藝的文化事業。